丹田格闘技について

 

武道・武術という枠にある多くの拳種が、

腰の動きを主とした丹田による身体操作を行っていると思います。

勿論、地面からの反作用を利用したり、相手の勢いを利用するなど、

独特の技術を備えた種類も多く存在しています。

ただこの場で腰・丹田を主体と一般に定義しているほとんどの武道・武術は、

基本的に丹田格闘技と呼べるのかもしれません。

そのように、一面、丹田を使用する事は普遍的な基本であるにも関わらず、

私達が敢えて丹田格闘技と提唱する事には理由があるのです。

それは丹田と作用点を繋ぐという部分が、必ずしも全てに共通する要素ではないからです。

基本的に腰で打撃力を生み出している場合でも、

多くは丹田から手足など末端(場合により肘や肩)までの

一方通行の力の流れとなっているからです。

これは言わば自己完結型の打撃であって、実戦技の特徴なのであろうと思います。

対して、丹田で反作用を受け止めるという事は

「打ち抜けない」強大な目標物を対象とした打撃(打突)に現れる

自然な姿であって、鍛錬にも通じる特徴です。

中国武術などでは三尖相照といい、正中線上に力を集中させる基本があります。

ということは攻撃の瞬間には三尖相照が完成していなければならず、

その時身体の変形は一瞬止まっているということになります。

それは大きな威力を求めるあまり、筋肉の運動による身体の変形

(腕を伸ばすことで加撃するなど)している状態では耐え切れない衝撃を、

「作り出し受け止める」ために生じる形(かたち)です。

例えば、人間の頭部にパンチ(打撃)で振動を与える時には、

勢いそのまま打ち抜く(フォロースルー)により頭を弾き飛ばし、

脳を揺らすことが出来ます。

そのため腕を届かそうと伸ばす動作に加速・攻撃するという

働きを求めるものになります。

しかし、それは目標物が軽いため(押すと動いてしまう)手応えが弱く、

重さより速さが必要で行っていることで、

体重制を採用している打撃競技の特徴でもあります。

体重制をとる競技が技術に優れるのは、一定以上の威力を備えるよりも

総合力で上回る事が有利で、確実に当てる戦術などを重視するからです。


打撃で頭部を弾き飛ばしている

格闘技という呼び名が、純粋な「格闘技術」を指していることがより明確になります。

しかし一方で、体格を超えた威力とは決別してしまったのも事実かもしれません。

つまり、体重制を基準にした打撃技術には厳密な意味で威力という概念が存在しないのです。

それは簡単な事で、体格を超えた威力とは、威力を求めたカタチで実現するという事です。

私達の感覚ではそれが丹田に反作用の返る型(カタチ)と表現します。

しかし威力を支えるためにとられる姿勢にはガードや角度について制約があります。

まず威力を維持した姿勢を優先し、その上で効果的な防御は何かと検討するからです。

 

威力のために、逆手を後ろへ引く事もある(そのため腕を使わない防御も必要とする)


丹田という一点箇所からの原動力という武道・武術的概念を重視しなければ、

外見的には近代格闘技の合理性から多少外れているように見える事もあるでしょう。

西洋的な合理性では、右手は右手の、左手は左手の仕事をすればいいと考えます。

ただし、武道・武術的手法が格闘技として競技に通用しないという訳ではありません。

例えばムエタイはミドルキックを全力で蹴ります。

そこにはガードを意識して蹴りを加減するという発想はありません。

思い切り蹴るフォーム(蹴りの威力)は崩さない前提で、

いかに相手の反撃をガードするか練習するということです。

武術が護身を目指すあまり、防御を意識して攻撃力が落ちてしまう事は

格闘技への転用から見ると本末転倒になってしまいます。

これを参考に武道・武術が格闘技をする上で大切なのは、

逆に戦術の部分を格闘技に学ぶという姿勢ではないでしょうか。

武術は兵法として状況に合わせ環境を利用するといいます。

ですから状況(ルール)に特化した格闘技は競技の場で戦術に優れているのです。


紹介動画の中に台湾での試合でローキックを多用する場面があります。

ここでのポイントは、実際に蹴る上で当然相手からくるカウンターパンチを考慮し、

武道で言われる「先の先・対の先・後の先」を多用している事です。

古武術家の中にはこの「三つの先」をさも重要な、

武道・武術が占有する技術のように表現する方がいらっしゃるようですが、

格闘技的には攻撃を当てるまでの働きにしか過ぎず、

三つ全部を、何回も繰り返し成功させる事で初めて効果があるのだという事です。

たまたま一回、二回出来る程度の技術レベルでは試合で役に立つことはほとんど無いでしょう。

ルールと防具のある徒手格闘技において、一打必倒とは簡単に実現する事ではないからです。

仮に、少ないチャンスで得たヒットを決定打にするとしたら、

武道・武術でいわれる体格を越えた威力と同時使用することで実現させるしかありません。

本当に体格を超えた威力を実現できるという事は、

体重制の競技では他の選手に比べ、頭一つ抜き出た強打者になっているはずです。

もし、「先の技術」も「体格を越えた威力」も実証出来ないとしたら、

その方たちは果たして武道家・武術家としての格闘技に対する優位性を

どのように主張されるのでしょう?

競技試合の場では適応で劣る武道家・武術家が、格闘家と対等に勝負するには、

むしろ「格闘技に学びつつ独自の技術を活かす」以外ないと私は考えました。

その武道・武術独自の技術の一つである「体格を超えた威力」のために、

アスリートとしては非力な私の場合、丹田で反作用を受け止める「丹田打撃」

(打突)でなければならなかったということです。

動きの中で(空中での一瞬)前屈立ちが実在している。
  

強大な威力と表裏である強大な反作用を受け止めるには、ヒットの瞬間剛体化させるため、

ヒットしてから腕を伸ばす、または距離を伸ばすためにリーチする事などは不可能となり、

体軸を維持したまま加速度的に踏み込む必要がありました。


遠くまで届かせようと伸びるが、しかし末端の重さ(伝達力)は減少してしまう
 

それは試割りで確信したことですが、ひたすら前進するという

形意拳の動きが生み出す破壊力との共通性や、

強力な肘打ち・体当たりを使用するという八極拳との近似性を直感しました。

誤解しないで頂きたいのは、決して形意拳や八極拳のレベルに近づいているという意味ではありません。

ただ威力を求むという一点が、踏み込みなど類似させる事に普遍性を見たという事です。

しかも、形意拳は内家拳、八極拳は外家拳という対極に分類される拳種です。

何故、内家拳と外家拳の中間で両方に似てくるのかと考えると、

それはやはり丹田格闘技の核である「肥田式を参考にした」事から明らかになります。

肥田式独自の「体操により丹田を鍛え、機械的に精神を統一する」という手法が、

「外家拳的内家拳」もしくは「内家拳的外家拳」という

「丹田格闘技」を導き出しているということです。

逆に極めて自己中心的な表現をさせて頂くなら、八極拳は外家的丹田格闘技であり、

形意拳は内家的丹田格闘技であると私の目には映るのです。

つまり「丹田格闘技」というのは初めから拳種というより手法であって、

武道・武術の技で肥田式を実行し、鍛えられた丹田で発揮する

「体格を超えた威力」と、やはり鍛えられた丹田が発揮する直観力を

「先の技術」で使用するという「丹田に完全依存する格闘技」であるということです。

「強大な威力」と引き換えに得られる「強大な反作用」というマイナスを、

丹田を練るエネルギーに利用する事で格闘技的肥田式を実行する事が

「丹田格闘技」の奥義です。

 

 

何もやらなくても、もともと喧嘩に強い人間がいます。

また、特に強くなくても自信を持って堂々と生きられる心の強い人間がいます。

そのような方には普通の格闘技で充分強くなれる素質があります。

しかし、生まれつき大人しく力の弱い方は運命として諦めるしか無いのかというと、

現状を打開したいと強く願う方は、その願いの中に強くなる運命を宿していると考えます。

丹田格闘技とは「肥田式」を目指したものですから、弱い人間が弱いまま「技術」で

切り抜けようとするものではなく、本質的に変化し「強く」なるためのものです。

体を鍛える事は花を育てるように、光と水とを与えて成長を待つことです。

それは髪が伸びるように、あるいは爪が伸びるように、視覚で捉えるには

とても歯がゆい成長速度に感じるかもしれません。

しかし、質的な変化こそ本当の変化であって、技術と体質は一対です。

そのため丹田格闘技における秘伝とは技の姿には無く、誰に見られても困りません。

身体を鍛えながら術理を身に付ける「鍛錬」の中に秘密は存在します。

肥田式とは「運命」「宿命」「天命」を超える強健術である。

私の肥田式に対する支持はこの一点に尽きるもので、

宗教とは無縁の信仰を確信する部分です。

 
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